創業1906 明治39年

名張市新田8
電話 0595-65-3002
代表者 中内 中

■ 取扱商品・サービス

 手組み和装組紐(帯締め)製造卸、洋装組紐・タペストリーなどの特注品制作。
組紐の体験指導、ギャラリースペースでの企画展開催。

当工房の歴史を写真で説明する中内さん

■ 事業の沿革

 初代の中内源市は、伊賀組紐の元祖である廣澤徳三郎の義兄にあたり、徳三郎が東京から組紐の技術を習得し、明治25年に郷里に帰り組紐工場を開設。その元で技術を習得し、明治39年に独立開業しました。
 開業当初は技術はあっても市場の流行などがとらえきれず、大量に在庫を抱えるなど軌道に乗るまでには大変な苦労があったようです。
 その後を引き継いだ父、中内節は旧制中学を卒業と同時に家業に就き、持ち前の器用さから、独創的な組紐の世界を切り拓き、個展を開催するなど、組紐作家として活動しました。
 私は学校卒業後すぐには家業に就かず、デザイン教育を受けた関係で、デザイナーとして3年間のジュエリー会社勤務を経て家業に入りました。
わずかな親戚縁者で始まった伊賀組紐も、昭和の初期には100事業者を超えるようになり、わずか半世紀で国内一の生産地となりました。伊賀組紐はその歴史から和装組紐(帯締め・羽織紐)の生産を中心として発展してきた産地であり、時代とともに生活様式が変化し、人々の和装離れが顕著な時代にあって、いかに組紐の技術を活かし、現代の生活様式に合った新しいモノづくりを創造していけばよいのか。洋装・インテリア・アクセサリー等への展開、組紐体験などカルチャーとして等々、まだまだ組紐には可能性が広がっていると思っております。

手づくりした組みひものアート作品を見せる3代目、中内中さん(72)。各地で個展を開くなど、作家活動も続けている。

■ 経営理念・特色

 手作り(手のぬくもり)にこだわったモノづくり。

■ 組みひもの技術とカルチャーを広めたい

 Q 組みひもの歴史について教えてください。
 A 組みひもは元々、王朝貴族の束帯に用いられるなど高貴なものでした。江戸時代には日本刀の飾り紐や甲冑などの武具に使用され、技術も発展しました。明治になり「廃刀令」が施行され、大きな痛手を受けました。
 伊賀組みひもの元祖・廣澤徳三郎は江戸(東京)で組みひもの技術を学び、1892(明治25)年に故郷で組みひも工場を開設し、当初は親戚、縁者数軒で生産を始めました。

1929(昭和4)年、初代・源一の組みひも工場で

 Q 初代の中内源市さんは、廣澤徳三郎の義兄にあたるのですね。
 A 源市はこの工場で技術を学び、1906(明治39)年に新田にあった庄屋さんの空き家を購入し、工場として改修し独立開業しました。

 Q その後、伊賀の地に組みひもが広まったわけですね。
 A 当時、伊賀地域は林業と農業の他に主要な産業は無かったのですが、女性を中心に若い労働力がありました。綺麗な絹糸を使って座敷で作業ができ、現金収入になるなど、組みひもが産業として定着する条件があったわけです。
 大正に入り、和服の生活スタイルが広まり、帯締めや羽織紐は消耗品として大量に消費され、組みひもは産業として一気に根付きました。昭和初期には、伊賀にある百社ほどの工房の全出荷額は約40億円になり、76(昭和51)年には国の伝統的工芸品に指定されました。

1892(明治25)年にできた「廣澤糸組工場」で、工具を使い組みひも技術を学ぶ女性

 Q 組みひも業界の現状はいかがですか?
 A 生活スタイルが洋風化して着物を着る人がすっかり少なくなり、帯締めの需要も急減しています。
 戦後、組みひもの従事者が減ったことで、機械を導入して低コストで組みひものアクセサリーや土産品などを作るようになりました。帯締めも機械でやると、見た目は綺麗ですが、腰が弱いんです。竹のヘラを使って「紐を打ち込む」手作業で作った帯締めは、絹糸がきゅっと締まる。微妙に違うんです。当工房では、一貫して手作りにこだわっています。

Q 事業の後継についてはいかがですか?
 A 昨今、糸繰や染色の業者が少なくなり、伝統文化としての組みひもを後世に残すためには自助努力だけでは難しい状況です。当工房には現在、兵庫県から技術を熱心に学びに来ている方もおられます。血筋にこだわることなく、こうした方を通じて何らかの形で組みひもの技術やカルチャーを広めていければいいと考えています。

現在は「堤側庵ギャラリー」として利用されている中内組紐工房の外観